重症筋無力症になってからの人生のこと
大島なつめさん
23歳のときに重症筋無力症を発症した、公認心理師の大島なつめさん。良くならない症状に不安な日々を過ごしたときもあったものの、大学院への進学、結婚、出産、就職と、一つひとつやりたいことを叶えてきました。そしてまた一歩、夢に近づきつつあるそうです。
留学中に重症筋無力症を発症
——ロンドンの大学に留学し、帰国前にヨーロッパを旅行しているときに突然体調を崩されたそうですね。
スペイン、フランス、イタリアと周ったのですが、最初のスペインにいるときに瞼が下がってきて、「何だろう?」と思いながら旅行を続けていました。イタリアに着いた頃には、体がだるい上、水が飲めなくなって、これはおかしいと思い、病院に行きました。
——すぐに重症筋無力症(MG)とわかったのですか。
そのときには頭部の画像を撮って「脳の病気ではないね」と言われただけで、わからなかったのです。すぐに帰国したほうがいいと言われて、日本に帰り、翌日に救急外来にかかったら、たまたま神経内科の先生が診てくれて「MGですね」と言われました。すぐに正しい診断をしてもらえたことは、すごくラッキーだったと思います。
ただ、『家庭の医学』という本を見たら、「これは死に至る病です」と。当時はそんなふうに書かれていたので、ショックというか、絶望でした。
胸腺摘出手術に母が涙を流した
——すぐに入院されたのですよね。
そのまま入院になって、結局、半年ほど入院していました。最初は歩き回ることができていたのですが、すぐに寝たきりのような状態になりました。当時はステロイドがほぼ唯一の治療法で、どんどん量を増やして服用していたのですが、全然効かず……。ちょっと良くなったかなと思っても、悪くなる勢いのほうがすごくて、本当にどんどん悪くなっていきました。
——そして、胸腺に腫瘍が見つかり、胸腺摘出手術を受けたのですね。
「胸の間をのこぎりで切る」というような説明だったので、一緒に聞いていた母は涙を流していましたが、私自身は「それで治るならどうぞやってください」という心境でした。
手術後は結構長い間、胸が痛くて辛かったのですが、「3か月、6か月……と3の倍数ごとに良くなるから」という先生の言葉を信じて耐えていました。たしかに、入院中に悩まされていた複視は手術後に目を覚ましたらすっかり治っていて、瞼も半年後ぐらいには上がったのです。
病気になった意味を考え、心理学の道へ
——ちょうど大学を卒業された頃に発症・入院されたわけですが、退院後の人生計画などはどのように考えていましたか?
病気になる前は、精神科の医師になろうと医学部への学士編入を考えていました。でも、病気で一旦はあきらめて……。ただ、「この病気になったのは何か意味があるに違いない」と思ったのです。それで哲学や心理学などの本を読み漁り、ひたすらノートに書き写していました。そのうちに心理学の大学院に行くか、やっぱり医学部に編入学するかのどちらにしようかと考えましたが、体力的に医学の道は難しいかなと思い、心理学のほうに進みました。
ただ、24歳で退院して大学院に入ったのは26歳なので2年間のブランクがあるんです。その間は入退院を繰り返していました。
——どのような状態だったのですか?
まず、ずっと座っていられない状態だったので、試験を受けることも無理。それに何度かクリーゼ(※呼吸筋の筋力低下で息苦しくなること)を起こし、救急車を呼んでいました。
だるくなって、首が重くなって、呂律が回らなくなって、そのうち息苦しくなって。そうすると、呼吸困難に陥ってしまう。防ぎようがなくて、とにかく休むしかないのですが、そこまで悪化すると休むだけでは良くならないので、救急車を呼んで入院するという感じでした。
ステロイドの点滴を受けると楽にはなりますが、初期増悪で一度ものすごく呼吸が苦しくなってから徐々に良くなるんです。だから、毎回怖かったですね。
——状態が安定したきっかけは何かあったのでしょうか。
2001年に免疫抑制剤をMGにも使えるようになり、そのあたりからだんだん良くなって、試験を受けられたんです。
主治医を説得して、出産
——大学院在籍中に結婚され、二年後には出産も。大きな決断ですよね。
最初は私自身、「子どもなんて絶対無理だろう」と思っていました。当時はMGの患者さんで出産したという話は聞いたことがありませんでしたから。主治医の先生にも最初は断固反対されて、「死ぬよ」とまで言われました。両親も「何よりもあなたの命のほうが大事だから」と大反対でした。ただ、この病気になって最初に主治医になってくれた先生が背中を押してくれて、その当時の主治医の先生を説得してくれたのです。
——不安はありませんでしたか?
出産で良くなる人もいれば悪くなる人もいると言われます。であれば「良くなるほうかな」と楽観的に考えていたような気がします。実際、出産後にはMGの症状は良くなって、出産してから一度もクリーゼを起こしていません。
ただ、出産中に圧迫骨折を起こして2か月入院していたということもあり、筋力や体力は落ちていたので、出産後は大変は大変でした。出先ではママ友にベビーカーを持ってもらったり、娘が幼稚園に入るまではシッターさんや訪問看護師さんに来てもらったりしていました。シッターさんや訪問看護師さんが娘と遊んでくれている間、自分は休むことができたので、ありがたかったです。
教育、臨床、研究の三本柱をやっていきたい
——今は公認心理師として2か所で働いていらっしゃるそうですね。
症状が安定して、生理のときに「ちょっと瞼が重いかな」「だるいかな」と感じる程度なので、週5日働けるようになりました。ただ、5日続けて出勤すると体力が持たないので、水曜と日曜をお休みにして、週2日はクリニックで、週3日は区の行政の相談員として働いています。
——患者会活動のほか、今回のように製薬企業の活動にもご協力くださることも。
それは、MGという病気をもっと知ってもらいたいからです。病名がわかるまでに時間がかかることの多い病気なので、情報を社会に出すことで「もしかしたら」と気づいてもらえる可能性が高くなればいいな、と。
また、疲れやすいこともこの病気の特徴の一つですが、知らない人からは怠けているように思われることもあるので、MGの知名度が上がれば、周りの理解も高まるのではないかと期待しています。
そしてもう一つは、こうやって自分の病気について振り返ることで心の整理ができて、「これからどうしていきたいか」という未来が見えてくるから。私はカウンセラーとして働いていますが、まさにカウンセリングを受けているような感覚になるのです。
――これからどんな夢を叶えていきたいですか?
私の尊敬する亡くなった先生が、教育と研究と臨床の三本柱をされていて、私もそうしたいとずっと思っていました。実は先日から大学で教えていて、教育にも携われるようになったのです。
――夢が叶いつつありますね。本日はありがとうございました。
(本記事中の疾患に関する記述はあくまで個人の体験や経験であり、症状や治療の経過・結果には個人差があります。)
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